2013年01月07日
アジアン・カオス②
前の記事で九龍城や香港にまつわる大まかな歴史を書きましたが、
前述のとおり香港は100年以上不安定の中にありました。
戦争があり植民地となり革命があり、そしてまた戦争、革命。
そういった混乱の中から逃げ出そうとする、たくさんの難民がうまれます。
どの国からも管理されなかった九龍城は、どの国の法律も適用されない無法地帯と化し、
大量の難民がなだれ込むようになっていったのです。
(1990年初頭には約5万人にものぼったといいます。人口密度約190万人/k㎡、畳1枚に対して約3人)
第二次世界大戦が終わる前の1941年、旧日本軍が香港を占領した際、
近隣の啓徳空港(現在はありません)拡張工事の資材調達のため城壁が取り壊されました。
(条約が絡んでいない日本軍だからこそできたのかもしれません)
その城壁の跡地に難民となった人々が木造のバラックを建て始めます。
その頃はまだ数軒しかなかったそうです。
1960年代後半からは、火災などのため鉄筋コンクリートのペンシルビルへと建て変わっていきます。
折り重なるように無計画かつ無謀な増築が繰り返され、近隣に空港があるため建築規制があったにも関わらず
(14階以下または45m以下)(5~6階以下なんていう説も・・・)
最高で15階建てのビルもあったそうです。
ですが、エレベーターはほとんどなかったそうです。
上の階の住民にはなりたくないですね・・・
そんな高さがあったビルなのですが(とはいっても天井は低いのでそこまで高層ではありません)
ほとんど無計画に建てられているため、ビルとビルの間には隙間があり、
隣り合うビルの高さは同じ階数でもバラバラで、
いくつものビルが支え合うようにひしめき合って乱立しているため、
城内の街路は「一度迷うと出てこれない」と言われるほど迷路と化していたといいます。
ですが城内の大きな通路には名前がついています。
また次の記事で紹介しますね!!
前述のとおり香港は100年以上不安定の中にありました。
戦争があり植民地となり革命があり、そしてまた戦争、革命。
そういった混乱の中から逃げ出そうとする、たくさんの難民がうまれます。
どの国からも管理されなかった九龍城は、どの国の法律も適用されない無法地帯と化し、
大量の難民がなだれ込むようになっていったのです。
(1990年初頭には約5万人にものぼったといいます。人口密度約190万人/k㎡、畳1枚に対して約3人)
第二次世界大戦が終わる前の1941年、旧日本軍が香港を占領した際、
近隣の啓徳空港(現在はありません)拡張工事の資材調達のため城壁が取り壊されました。
(条約が絡んでいない日本軍だからこそできたのかもしれません)
その城壁の跡地に難民となった人々が木造のバラックを建て始めます。
その頃はまだ数軒しかなかったそうです。
1960年代後半からは、火災などのため鉄筋コンクリートのペンシルビルへと建て変わっていきます。
折り重なるように無計画かつ無謀な増築が繰り返され、近隣に空港があるため建築規制があったにも関わらず
(14階以下または45m以下)(5~6階以下なんていう説も・・・)
最高で15階建てのビルもあったそうです。
ですが、エレベーターはほとんどなかったそうです。
上の階の住民にはなりたくないですね・・・
そんな高さがあったビルなのですが(とはいっても天井は低いのでそこまで高層ではありません)
ほとんど無計画に建てられているため、ビルとビルの間には隙間があり、
隣り合うビルの高さは同じ階数でもバラバラで、
いくつものビルが支え合うようにひしめき合って乱立しているため、
城内の街路は「一度迷うと出てこれない」と言われるほど迷路と化していたといいます。
ですが城内の大きな通路には名前がついています。
また次の記事で紹介しますね!!
Posted by カモ at 13:35│Comments(0)
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